宝物・文化財
太刀(銘 吉則)
文化庁 美術工芸指定重要文化財 太刀・・・クリック拡大
(平成19年 東京国立博物館出品委託保管 から 中津川市苗木遠山史料館 へ)
※この写真は遠山史料館、榊山神社総代会の許可を得て記載しております。無断の転用、記載はお断り致します。
三条吉則は山城国京の刀工で同銘数代つづいている。この太刀は同銘の作中では古く南北朝の時代の作であり、
作風は磨き上げているがなお長寸で姿が良く、全体に古風である。同作中の優品である。
★法量
新町75.6CM 反り2.6CM 元幅2.8CM 先幅1.8CM 鋒長6CM 茎長25.7CM
★品質形状
鎬造、庵棟、身幅尋常にして反りやや浅く、小鋒詰りごころとなる。鍛えは反目、物打裏は流れ、全体に刃寄り
に柾ごころあり、肌やや立つ。刃文は小乱、小丁子、小互の目が交わり、砂流し。金筋かかり、小沸がつく。帽子
は一枚に近く、火焔風にはきかける。彫物は表裏に丸止めの棒桶を彫る。茎は丸上げ、鈩目勝手下がり、先切り、
目釘孔二、茎尻に「吉則」と2字銘がある。
---三条吉則和泉国について---
吉則は京三条に居住したことから、三条吉則と称した。銘鑑によると初代を応長・建武としているが、確実にこれらの年代に
属すると思われる作刀を見ず、実際に多く現存するものは応永以降の作品であり、通常経眼する吉則銘のほとんどは室町時代中期、
文明頃の吉則である。彼には文明三年(1471)から永正四年(1507)までの三十六年間に亘っての作刀がある。吉則もま
た同時代の山城鍛冶と同じく戦乱を避けて和泉・越前の地で鍛刀し、和泉打・越前打の名品が残されている。
--- 経 緯 ---
明治中期、元苗木藩主遠山友禄(ともよし)氏が藩祖が植苗木の地に広恵寺城を構えていたゆかりによって、榊山神社に奉納された
もので、昭和45年刀身保全の為の手入れを行い、国立東京博物館に寄託されたものです。この太刀の由来は明治20年代に苗木遠山家から
、古来遠山家に由緒ある榊山神社に寄進したといいます。 奧州白川藩10万石は、領主松平定信が有名ですが、定信の後、定永が文政
6年に桑名に移封され、後を安部鉄丸正権18歳が継ぎます。しかし、鉄丸が病弱のため、親類が寄り合って、松平房正篤17歳を養子と
して幕府に承認させます。間髪、鉄丸が急逝。養子房丸は法事を済ませ、家督を相続して、安部飛騨守となります。鉄丸の遺物、白鞘
刀(吉則)一腰を世話になった親類の遠山家に形見として届けました。その太刀が吉則です。
乃木希典筆跡(記念碑)
中津川市指定文化財・・・クリック拡大
日清戦争・日露戦争の戦没記念碑でその文字は軍司令官であった乃木希典大将の揮毫によるもので、
日清戦争13名、日露戦争125名の従軍者の氏名が刻まれています。
その他
本殿、拝殿、石灯籠7基(中津川市指定文化財)