榊山神社の謂れ

トップページ    推奨ブラウザ:IE11 & Chrome & Firefox

神社謂れ

 天正天皇の養老年中のことである。神仏を敬い信心深い荒田栄久入道という人がいた。 この人の住んでいた庭にある日突然空より杉苗が7本落ちてきた。どうしたことかと驚いていると、急に、 長男が「われは牛頭天皇の神木なり、このところの守護神として長く庄内を守らん」と口走ったのである。  さっそくこの苗木を植え、立派な社も建て「飛び天皇」と呼んで氏神として祀った。ここが植苗木と呼ばれる ところとなった。ところが、元弘建武の頃、世が乱れ、この里も戦乱の巷と化した。敵軍に包囲されたとき、 入道は社殿に向かって、「我が軍を守らせよ」と祈ったところ神社より白羽の矢が2本敵陣に飛び込んだ。 と、見る見るうちに雷鳴轟き車軸を流す大雨となり敵は逃げ去った。  このことがあってから他の地にも城をかまえようとし、高森(現在の苗木城跡)をその候補地に選んだ。 (実際には、いままであった「城ヶ根」の城は飛騨に面していたため、信州方面への防御が必要になったからだと 考えられています。そこで、氏神も高森に移そうということになり、神輿にご神体を乗せて運び出したのであった。 ところが、神輿が現在の榊山神社のところまで来るとびくとも動かなくなってしまったのである。このときの出来事が 「叩き祭り」の名を生んだようである。「美濃古道記」再録によると、このときの様子を次のように記している。

 氏神を勧請すべしと促人数神輿を迎える所今の宮地に至り神輿磐石の如く不動役士奇異の思ひをなし進めよ行々と鞭 を以って供奉の者を打てども押せども動かず。(これが叩き祭の故事なり、毎年大祭の節、供奉の者榊の枝を以ちて打つを例とす)

東濃の祭り(東濃教育事務所学校教育課)より参考

歴史

古来の祭りは、神社という特別な建物があって行なわれてきたわけではなく、山の中や、石の上や、木の周りでお祭りを行なっていました。 仏教が伝来し、寺院が建てられるようになると、それに合せて、神社が建てられるようになり、今までの、自然神、祖霊神や氏神、産土神崇拝 による敬神習俗の祭りは、神仏習合の体を成していきました。
この榊山神社(その頃は牛頭天王宮)にも神仏混合のお寺で別当雲台寺(真言宗)があり、僧侶が神社を管理していました。 それまでは、「神道」という言葉や神職(神官)と云う特別な職業はなく、村の人達や武家の人達でお祭りを行なっていたと考えられます。 明治元年、大政奉還(王政復古:政権が徳川から朝廷に変わる)後、神仏分離令によって寺院と神社が分かれる事となりましたが、 この地方では明治維新の復古神道政策に基ずく神道宗教確立のため、徹底的な廃仏毀釈が苗木藩の領地である田瀬地区、福岡地区、 高山地区、・・・・で行なわれ寺院がなくなりました。

先の別当雲台寺(真言宗)もなくなり、寺院の脇仏、祈祷札は下野の庚申堂に移され祭祀されています。

 ※「牛頭天王」とはインドの神様で、疫病を司る神。丁重に祀れば疫病を退散させてくれるが、礼を失すると疫病を流行らせると信じられています。 日本ではヤマタの大蛇を退治した須佐之男命として同一視されています。また、日本の神仏習合における神で薬師如来とも云われている。

平安時代の初め、疫病が全国に流行った時、牛頭天王の祟りだとして疫病退散の祈願が各地で行なわれました。 今でも、牛頭天王と謂われる神社は全国各地に見られます。丁度、榊山神社が創建されたのも、平安時代の初めです。 なにか歴史的な関係があるように思えます。

明治2年に牛頭天王社改め、八重垣神社と改める。
考えられるのは須佐之男命が詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその 八重垣を」が 日本初の和歌とされることに因んだのではないかと思われる。
しかし、明治5年には榊山神社に改名している。理由は不明であるが本殿の上部にそびえる小高い山には多くの榊が群生していることにより改名されたかもしれません。